歌舞伎座公演批評ブログ

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令和三年一月

 この一月から三部制各部二演目になった歌舞伎座。まだまだ予断を許さぬ状況、数々の制約と闘いながらの興行とはいえ、八月の公演再開以降十二月までの四部制各部一演目から、一歩前進と言える。

 さて、中では第二部の『七段目』が素晴らしい舞台だった。時間制約の都合で『釣灯籠』からだが、ベテラン三人が揃って高水準にまとまっている。

 まず今回で十度めとなる吉右衛門の由良之助が名品である。随所に前回(2016.11)からの深化を感じさせたが、その最たるものは酔態の表現だろう。まず暖簾から出てくるだけで、紫の着付けによく合う柔らかみと色気、遊蕩の気分に溢れている。由良之助は『四段目』と『七段目』で性質が違うとは、芸談などに多く残るところだが、吉右衛門は出てきただけでいかにも『七段目』の由良之助らしい。また、手紙を読む件の正気から、「そもじはそこで何してぞ」で酔態に転じる件も美事。台詞の言い回し、揺れる上体、フラつく足などからいかにも酒の香りが漂ってくるようで、その向こうにしどけなく重ねた放蕩が見えてきた。前回は酔態を装っている感じだったが、今回は本当に酔っている。これが全体を太く貫いている表現の根幹であって、あとで述べる後半部まで含め、由良之助に奥行きを与えている。

 もう一つ、今回の大きな特徴は、九太夫の存在を知る件だ。ここは「ようまあ吹かれていやったのう」と張って言い、簪を落としてくれて助かったという気持ちを表現するのが、前回までの吉右衛門含め、普通の歌舞伎のいき方である。が、今回は「ようまあ吹かれてじゃの」と浄瑠璃通りに砕けて言う。これにより、台詞のリズムが変わり、イキが変わり、前述の喜びと同時に、手紙をみられた困惑も表現した(25日、台詞はそのままに言う位置が変わった。二重の上で腰と片膝をついていたのが、座って三段に足を投げ出すようになった。初めて見る形だが、これも遊里気分に溢れていた)。結果、「見たであろう、見たであろう」と探りをいれる件に幅が出たし、「あの嬉しそうな顔わいやい」での殺気と心苦しさにも繋がった。吉右衛門は手慣れた役でも決して安住せず、より良い表現を探し続けている。十一月の『俊寛』もそうだったが、最近は歌舞伎の入れ事や改変を本行通りに戻すことが多いようだ。そこに私は、伝統や型を乗り越えた吉右衞門の境地を見る。

 二度目の出、「ヤレ待て両人、早まるな」はピリッと空気が締まる。この空気を切り裂く鋭い声音は本当に得難い。

 九太夫折檻の台詞は全身全霊――という言葉が相応しいほどの凄まじい迫力。前回と変わったところが二つあった。一つは「一生連れそう女房を」でお軽を指し、若干涙声になったことだ。これによってお軽の境遇がより現実感を持って感じられた。もう一つは前回までの激しい怒りのこもる力強い台詞に比べ、若干声のトーンが高くなり、丸みを帯び、愁いも濃く出るようになった。これもおそらくは酔態の表現の一環である。この場はハッキリ正気になる役者が多いなか、吉右衞門は敢えて酔いを残しているのだ。それがあるから、仲居の声がした途端、極端な酔態になるのも、取ってつけたようにならず、幕が閉まる最後の瞬間まで遊郭の気分が漂っていた。その気分こそ、吉右衛門が創造する由良之助の象徴である。

 雀右衛門のお軽は、障子が開いた瞬間にアッと目を奪われた。美しさ、華やかさ、色気、陰影、古風さなどが前回(2016.11)とは別人のよう、いや、それどころか、2ヶ月前の千鳥と比べてもまるで段違い。先代雀右衛門を思い出させる瞬間もあり、明らかに雀右衛門の役者としての格が数段上がっている。座って団扇を扇ぐ仕科も色気豊かで情緒纏綿。登場の数秒間だけで本当に陶然とした。

 「船に乗ったようで怖いわいな」のコッテリとした台詞回し、「勘平さんがどうぞしやしゃんしたかえ」ににじむ勘平への思い、勘平の死を聞いて、呆然として一度のけぞって、揚幕を見て、身体を起こし、また揚幕を見て呆然とし、ようやく理解し、癪に気付く、この一連の丁寧な手順に浮かび上がるショックの大きさ、「勘平さんは三十に」の胸をつく哀れさなど、演技も充実を極めている。心技体、全てが整った逸品。まさに五代目雀右衛門という花が満開に咲いたお軽だった。

 梅玉の平右衛門。総体に淡白なのは芸風だが、「お主の仇、討つ気はねえに極まった」や「腹ぁ切って死んでしまった」など、ここぞというところではかなり突っ込んだ、手強い芝居をしたのに驚いた。ちょっと大袈裟に言えば、これが本当にあの淡白な梅玉なのかと思う程だ。

 もう一つハッとしたのは、〽︎人に優れた心底を」で、梅玉の平右衛門は本当に無力感に溢れている。大した功もない、剣術の腕がたつわけでもない、身分だけがかろうじて武士であるだけの平々凡々な男。妹を殺すことでしか武勲をあげられそうにない男の悲しさ。小心者の悲哀、追い詰められた下級武士の悲劇―。そういったものがハッキリ見えてきて、平右衛門という男、ひいてはこの兄妹のドラマを教えてくれた。淡白で物足りない憾みがないとは言わないが、それ以上のものを見せてくれる平右衛門だったと言っていい。

 九太夫は橘三郎。伴内は吉之丞。

 なお、今回は歌舞伎では珍しく竹本が掛け合いである。

 『夕霧名残の月』は藤十郎の追善狂言。橋掛かりや破風のついた舞台が舞台上に作られたり、柱に「中村鴈治郎中村扇雀相勤め申し候」と書いた額を飾るなど、いかにも古劇の趣がある。この芝居、坂田藤十郎の襲名公演(2005.12)で復活上演されて以来、今回が大劇場では五度目。当代鴈治郎が伊左衛門を勤めるのは今回で二度目である。橋掛かりから出て、柱に手をついた形の柔らかみ、「夕霧に会いにきたのじゃわいな」の浮き立った気持ちなど、今後の上方和事の旗手は鴈治郎だと思わせるものがあった。

 扇雀の夕霧は美しいが、「わしゃ患うてな」の台詞に哀れがない。姿にも儚げで幻想的な雰囲気がもう少し欲しい。

 番頭藤兵衛は寿治郎、扇屋女房おふさは吉弥、扇屋三郎兵衛は又五郎。太鼓持は亀鶴、虎之介、玉太郎、歌之助の四人。中でも虎之介にどこか藤十郎の面影が残り、かつ上方和事の喜劇味もあって頼もしい。

 藤十郎復活初演から演出が変わった箇所がある。一つは夕霧の出。復活初演では裲襠の裏から出てきたが、今回は大道具を釣り上げて、その奥から出てくるようになった。もう一つは夕霧との踊りで照明を落とすようになった。前述のように、全体の作りが古風なのだから、部分的に現代的な演出を入れても水と油。いまさら照明を蝋燭に、とまでは言わないが、古劇はできる限り古劇らしくあってほしい。

 

 第三部、高麗屋三代の『車引』は白鸚の松王丸が絶品だった。第一声の「待て」から力強く、気迫に満ちた大音声。姿もとにかく立派で、出てきただけで歌舞伎座の広い空間がいっぱいになる。これこそ座頭役者、というべき出だ。

 印象に残った台詞は数多いが、最も心を揺さぶられたのは「ならば手柄に、ハハハ、止めてみよえ」の古怪な笑いである。この古怪さは、白鸚の身体に流れる色濃い歌舞伎役者の血と、義太夫狂言が根源的に持つ魔力とが最大までかけ合わさって生まれるもので、白鸚義太夫狂言でしばしば顔を覗かせる。現代劇やミュージカルをライフワークとして長年手掛けるなど、近代的知性を持つ俳優として語られることの多い白鸚だが、時としてその古怪さが、理屈では説明のつかぬ不可思議な世界へと観客を誘ってくれる。一身にしてその両方を備えるのは唯一無二の離れ業と言っていい。その上で、「止めてみよえ」の惚れ惚れするような荒事風の発声である。かつて森田思軒は五代目菊五郎の見得を見て、「是だから東京は離れられない」と言ったそうだが、今の私は白鸚の古怪さと台詞回しを味わうためにこそ「歌舞伎鑑賞はやめられない」。

 「松王が一討ちだぞ」のスケールの大きさも類がないが、その直後に時平の台詞が入り、「ハハー」と頭を下げる、そこに時平と松王の主従関係がはっきりみえたのも忘れられない。二人の関係性は筋の上のこととして当然知っているが、舞台上の表現からこれだけハッキリみえてきたのは今回が初めてだ。天性の芝居のうまさ―具体的には心理の掘り下げ、声音の微妙な変化、間の絶妙さなどの賜物に違いなく、改めて白鸚は稀有な俳優だと思った。

 幸四郎の梅王丸は筋隈が映えて錦絵のよう。お正月の気分にさせてくれる。元禄見得の形の美しさも見事だった。が、台詞には改善の余地が残る。基本的に高調子を維持しているが、時々低い声を使うのだ。所見日の例で言えば、「この梅王」は低く、「牛に手慣れし」で高くなった。この低い声がどうしても筋隈や三本太刀の大らかな気分と合わない。

 染五郎の桜丸には気品がある。

 杉王丸は廣太郎。金棒引は錦吾。時平は彌十郎

 最後に『らくだ』で笑って打ち出し。手斧目半次は芝翫。紙屑買久六は愛之助。駱駝の馬太郎は松江。半次妹おやすは男寅。糊売婆おぎんは梅花。家主女房おいくは彌十郎。家主佐兵衛は左團次

 

 一部は若手揃い。『壽浅草柱建(ことほぎてはながたつどうはしらだて)』は普段ならば浅草に出ているメンバーが勢揃いし、『対面』を舞踊化した作品を踊る。松也の五郎はしていることはうまいにしてもニンではない。隼人の十郎、巳之助の朝比奈は合っていて、いつか本物の『対面』で持ち役になりそうだ。種之助の珍斎も品を崩さずに滑稽にやっている。歌昇の工藤は重みを出しているが、今はまだ無理が目立つ。大磯は米吉。喜瀬川は鶴松。舞鶴は新悟。化粧坂の莟玉は所見日休演。

 『悪太郎』は世の中の暗い空気を吹き飛ばす面白さだった。悪太郎猿之助。修行者智蓮坊は福之助。太郎冠者は鷹之資。伯父安木松之丞は猿弥。