歌舞伎座公演批評ブログ

歌舞伎座の批評を毎月載せていきます。よろしくお願いします。プロフィール写真の「若手歌舞伎」を出版しました。

令和三年四月

 四月の歌舞伎座は注目の舞台が二つある。一つは第一部の『勧進帳』。一日交代でA日程、B日程と分かれていて、A日程では白鸚が本興行では史上最高齢で弁慶を勤めるのである。この白鸚の弁慶が実に素晴らしかった。まず顔がいい。美しく、精悍で、力強い。そして「ヤレしばらく御待ち候え」の声音も実に艶があり気迫に満ちている。

 もう一つ素晴らしかったのは、〽天も響けと読み上げたり」や〽︎感心してぞ見えにけり」などのキマりである。その力強くエネルギーに満ち溢れた顔は、20年、30年前の写真を彷彿とさせるものがあり、その上で芸が放つ光彩は桁違いに深まっている。山伏問答では「人間なればとて」は強めに張るのは木の芽会での初役以来の白鸚の型。また、「霜に煮湯を注ぐが如く」で笑うのも弁慶の余裕を表していた。

そして今回の弁慶で最も私の心を捉えて離さなかったのは、義経折檻の件である。一度通行を許されると、富樫に一礼してから花道に向かう。呼び止められて、「待て待て」と凄まじい気迫で四天王を抑えてから引き返し、「判官殿に似たる、ご、う、り、き、めな」と切って言い(この言い方に、この窮地を切り抜ける方法を考えているのがありありと浮かんでくる)、これしかない、と涙と共に思い入れし、頭を下げてから折檻し、再び頭を下げ、下手へ押しやってまた泣き上げる。この一連の演技は白鸚が磨き続けてきた芸や魂と、弁慶という役を同時に伝えているという点で、今回の所演を象徴するものであった。立役のなかで最も大役だと言われるこの弁慶、体力的に大変なのは戦物語や延年の舞、飛び六方などが立て続けにある後半だと想像されるが、ドラマとして難しいのはこの折檻の件ではないだろうか。ここをどう表現するかが、即ちその弁慶がどういう弁慶かに直結する。今回の白鸚の弁慶からは、主君を折檻するという行為の烈しさ、その行為をすると決めた弁慶の覚悟と苦衷がハッキリ伝わってきて実にドラマチックであった。

「天罰空おそろしく」、「腕も痺れる如く」、「あらもったいなや」なども、白鸚は自分のしたことに心から恐れ慄いている。前述の折檻の件と合わせて、白鸚の創りたい弁慶の核はここであるように思う。

戦物語では石投げの見得にやはり以前の写真を彷彿とさせるものがあり、延年の舞では、酔態を装いながらも四天王に扇で合図する件で目だけ冷静になったのが印象的だ。そして幕外での富樫への礼にこもる万感の思い、勇壮な飛び六方。どこをどう切り取っても弁慶そのものであり、その向こうにまた白鸚自身が感じられる−そんな弁慶であった。

幸四郎の富樫は美しく、浅葱の長裃が似合っている。それにも増して感動したのは、甲の声が本当にキレイに出ていたことだ。以前とはまるで別人のようだ、と言っても決して過言ではない。山伏問答での相槌、折檻をみて全てを察する芝居、「かく折檻もし給うなれ」の言い回しと情味などが、白鸚のそれそっくり。その精神が伝統芸能の核である。

雀右衛門義経は一級品。どこか神聖さがあって、女形義経と言える。天地人の見得の形の良さ、〽︎判官御手」の慈悲深さなどが素晴らしかった。

亀井は友右衛門、片岡は高麗蔵、駿河は廣太郎、常陸坊は錦吾。

勧進帳』のB日程は、義経と四天王はそのままに、弁慶が幸四郎に、富樫が松也になる。

幸四郎の弁慶は風格が増し、呂の声が深くなった。富樫の甲の声と、二種類の声を日替わりで使い分けるのは相当な苦労と想像するが、そのどちらでも前回以上にいい声になっているのは驚嘆する。繰り返すが、以前を思えば本当に別人のような声である。この声を持って、長らく手掛けていない役―例えば『寺子屋』の松王、『渡海屋』の銀平、『金閣寺』の松永大膳などをかければ、前回とは全く違った舞台になるに違いない。

松也の富樫は風姿は合っているが、ちょっと声が重い。もっと軽やかで高い声を出せる役者ではないか。山伏問答でも力みすぎて喧嘩しているようになっている(亡き團十郎は、多少のヒートアップはしても、喧嘩のようになってはいけないと言っている)し、「疑えばこそかく折檻もし給うなれ」も芝居のしすぎで台詞のリズム感を失っている。『勧進帳』はまず音楽的な台詞回しで酔わせてほしい。

『小鍛冶』は猿之助童子(実は稲荷大明神)が小気味よく、中車の宗近も風格が出た。左團次の橘道成も立派。巫女は壱太郎。弟子は笑三郎、笑也、猿弥。

 

 話題の舞台、もう一つは三部の『桜姫東文章』である。36年ぶりに玉三郎の白菊丸と桜姫、仁左衛門の清玄と権助での上演となる。ただしコロナ禍による上演時間の制限だろう、今月は「上の巻」として『稚児ケ淵』から『三巡土手』までの上演となる。久しぶりであっても以前は二人で繰り返した芝居だけあって、実に手に入っている。

玉三郎の白菊丸は役者の格が高くなりすぎて前髪姿が合うとは言えないが、芝居のうまさで魅せている。花道で振り返り、追いかける者がいないか確認する件や、「来世は女子に生まれ出て」の台詞の真実感、清玄と二人で支え合いながら岩を登る件の心の通じ合いなどは特筆もの。

『新清水』から桜姫になる。赤姫姿の美しさは言わずもがな、良家の息女らしい気高さが素晴らしい。玉三郎の桜姫で今月で最も面白かったのは『桜谷草庵』の場である。あの気高かった赤姫が、権助の彫り物を見て驚くと、すぐに喜びに変わり、色気が出る。そして冷静を装ってみんなを下がらせて、ちょっと動揺を残したまま権助を引き止める。胸のまえで手を合わせ、間違いがないかを確認してから、「そちは去なさぬ、まあまあ待ちゃ」と夢見心地で言う。その濃厚さは筆舌に尽くし難い。「ハテ、大事ないわいな」で裲襠を持って広げる形、「不思議な縁もあるものじゃの」のキマり、桜姫の帯を解いて互いに端を持ってのキマりなど、全てがまさしく絵画。桜姫と権助の芝居であると同時に、玉三郎仁左衛門の長年の共演が凝縮された瞬間だった。

もう一つここでハッとしたのは、玉三郎の袂である。何をする時も袂の使い方が大きく、舞台に時代の格調を出す。対して権助は完全な世話のイキである。この時代と世話―本来全く異質なものが不思議と絡まりあい、『桜姫東文章』という奇想天外な世界を浮かび上がらせる。これが今回の上演の傑出したところである。

そして、不義云々と言い立てられた途端声が弱々しくなることや、『稲瀬川』や『三巡土手』などでなす術なく状況に流されっぱなしなことなどが、いかにも桜姫らしい。

仁左衛門の清玄は『稚児ケ淵』での色気が豊か。七三で白菊丸と抱き合っただけで二人の関係と清玄という人物を分からせる。『新清水』では、根っこは同じ清玄でありながら、高僧の品位を身に纏うのが素晴らしく、香箱をみて一瞬で全てを悟る芝居も見事。

二役権助になると、声の使い方、台詞の間、身体の線、表情など全てが鮮やかに変わる。権助が纏うのは仁左衛門の演じる南北ものに共通する悪の匂いである。

『桜谷草庵』では桜姫の彫り物を見せられて、「そんならこれを、あの折に」で膝を組んで見得をして、絵画的な面白さを堪能させてから、自然に七五調の台詞に入っていくのが流石の腕。一年前に妊娠したと聞かされてうんざりするが、姫が面倒なことを言い出さず、単にその気であることが分かると、またすぐにニタニタと笑い出す。この芝居が実に流れるように分かるのに、決して説明的でないのも仁左衛門の芸風で、これ一つで権助という男を表現しきっている。

再び清玄になって「いっかなここは、やられぬやられぬ」の件で高僧が堕落して様子、「よくも愚僧を偽って」の恨み節、桜姫への未練や、「これも誰ゆえ桜姫」の哀れさと弱々しさなど、権助とは全く別の人間を表現して余す所がない。

今月の上演はここまでである。これだけでも充分に興業として成り立たせたのはさすがに仁左衛門玉三郎だが、この作品の面白い場面はここから先である。「下の巻」上演が楽しみでならない。

歌六の残月、吉弥の長浦はもう少し下品になっていいのではないか。鴈治郎の悪五郎は悪が効いている。粟津七郎は錦之助。軍助は中村福之助。松若は千之助。口上は弘一。赤子の泣き声にはもう一工夫ほしい。

 

 第二部は『絵本太功記』。芝翫の光秀は藪畳から出てきて、木戸前で一度頷き、数歩下がって、上に笠を上げる四代目芝翫の型。笠の向こうに現れる錦絵のような顔は得難いのだが、何故かそこに伴ってほしい古怪さや陰影が薄い。その結果、〽︎ただ呆然たる」で皐月の様子に驚く(普通は尻餅をつくところだが、右足だけ突く)件も、錦絵のような顔の割には、光秀の衝撃が伝わってこない。その後、母や妻の叱責を腹で受け止める件、大落としの件、物見の件、幕切れに至るまで万事が同じである。

菊之助の十次郎は美しく、いかにも貴公子然としている。「もう目が見えぬ」の件も哀れである。

梅枝の初菊も、菊之助の十次郎といいコンビ。

東蔵の皐月は持ち役で、武家の妻らしい手強さ、光秀への強い怒り、手負いの台詞の巧みさなど、完全に手に入っている。変わったのは最後の台詞である。前回までは「孫と一緒に死出三途」だけだったが、今回は「うるさの娑婆に居ようより、孫と一緒に死出三途」と言うようになった。もともとこの台詞、浄瑠璃の長い台詞の最後の一言だけを残したもので、今回はカットしたところから一部分復活させたものである。この一言を加えたことで、取り返しのつかぬことをした光秀への怒りや、この世への諦観のようなものを濃く表現した。これが今回の皐月の造形を象徴している。

魁春の操は台詞の一本調子が気になる。扇雀の久吉は柔らかさ、品の良さは素晴らしいのだが、もう少し時代物の厚みが欲しい。彌十郎の正清はイトに乗った仕科が大きく、義太夫狂言らしい大らかな雰囲気があった。

『団子売』は梅玉の杵造と孝太郎とお臼。江戸風俗の踊りでサッパリと打ち出し。